昭和四十八年四月十六日 御理解第二十二節
「天地金乃神と云えば天地一目に覧ておるぞ。神は平等におかげを授けるが受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を充分に受けようと思えば、ままよと云う心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよの事ぞ。」
天地の親神様は平等に誰彼の差別、区別なしにおかげを下さるが受け物が悪ければおかげが漏ると、こう。
神の徳を充分に受けようとすると、どういう受けものを持っておったらよいか、どういう受け物が有難いか。
それはそういうおかげを頂く為には、ここには厳しい迄の事を言うておられます。ままよと云う心を出せと仰っておられる。
ままよとは、死んでもままよの事ぞと云った様な厳しい事です。けれども、そういうおかげを段々と受けさせて頂くことを願いとしなければならん。
今日私は御神前で色々頂いた事がね、「申し上げ奉らく」と云うこれは、祝詞言葉ですねえ、申し上げます事はと云う意味なんです。 「申し上げ奉らくは」と、それを「申し上げ末楽は」と頂いた。ですから、皆さんが様々な願い事、又は御礼ごと、お詫びごと様々にあります。とりわけその願い事の場合、心にかかることがある。頭の中はその事でいっぱいだと云う様な事がある。その事を神様にお願いを申し上げる。云うならお取次を頂いたら心が安らぐ。心に安心が出来ると云うところ迄のです、信心が出来なければいけません。心配事を申し上げても、お取次を頂いてもやっぱり心配を持って帰る様では本当のおかげにはならん。なぜかと云うとままよと云う心になっていないから。
お取次を頂いた以上、もう左右は神様あなたのお任せ致します。親先生あなたにお任せ致します。その心がいわゆる末楽である。末は楽と云う。
そういう心の状態、ははあ成程そういう心の状態にならせて頂いたら楽じゃなあ、有難いなあと思わせて頂いたら、申し上げると云う申すと云う字をね、上の方を消して頂いたら、甲の上と云う事になる。申し上げと云う事は甲の上と云うこと。
昔は成績は甲、乙、丙、丁で決めましたよ。その甲でもとりわけ上等のは、甲の上と云うて書いて貰いよった。最高と云う意味なんです。
お取次を頂く、お願いを申し上げたら、もう後は神様にお任せ申し上げましたというその心がスッキリとしてくる。そういう心の状態で、そんなら帰られる。そういう心の状態でおれれる、そういう心が、いわゆる甲の上だと云うことなんです。最高だと云う。
お願いしとるばってん、どげんなるじゃろうかと、不安に思う。心配、これは何処迄もまあだ申し上げただけである。神様にお願い申し上げただけである。末楽になっていない。
今日のお天候の事をお願いさせて頂きよりましたら、「明治天皇」と頂いた。明と云う字は日に月にと書いて有る。いわゆる明るいと書いてある。治と云う字は治まると云う字。
昨日のラジオは、もう曇り後雨、九州中がそうである。けれどもお願いを申し上げたが以上はです、例えば降るとか照るとかはもう、あなたにお任せするのである。そしてお願い申し上げて出てきた答、その時点を有難く受けられる信心をさせて頂かなきゃいけん。
あげんお願いしとったつにこうじゃった。右と願ったら左じゃったと云う様な事では、いわゆる今日ここで頂きますそういう心の状態では、折角神様が降るように下さってあるおかげも漏らさなければならん。しかも天地の親神様は隔てなくしかも限りなく無尽蔵におかげを下さってある。そういうおかげを受け止めさせて貰うと云う心の状態を作ることが信心だと云うこと。
それにはお取次を頂く。金光教で云う御取次と云うことは素晴らしいことです。御取次を頂く、金光大神のお任せをすると云うことになります。
昨日の朝の御理解に「春風柳風」と云う様な事を頂きました。もうそれこそ春風の様な心の状態、よしどういう事であっても、柳風である。風は柳と受け流してゆける心の状態。
まあ今日の御理解で頂くとそういう心の状態を頂くと云うことが、それこそ水も漏らさんおかげを頂くことの状態だと思う。心にしこりがない。
そこでです、例えば心の状態を頂かせて貰うと云うことはどういう様な信心修行させて頂いたらよいか。まあ、云うならば修行が修行と感じんほどしの修行でなからなければ本当の修行じゃない。
こんなに朝早うからお参りせんならん、もう何時までこげな朝参りをせんならんじゃろうか、何時までこげな修行せんならんだろうかと云った様な修行じゃ本当な事じゃない。
人の真似の出来ん様な事柄でも、それがもう平気で当り前の事として、いや有難い事として頂けれるおかげを頂かせて貰う。もう幾つ迄朝参りしようなんてもんじゃない。もう手足の続く限り、命の有る限り朝参りの修行させて貰う。もう修行ではなくて、もう有難いと云うこと。
今日御心眼に頂くのがね、西瓜を食べておる。そして西瓜の種を取る匙で西瓜の種をもういかにも面倒くさくてこたえんちゅうごたる風でこうこうやって取りよるところを頂いた。
それこそ西瓜に種がなかったらさぞよかろう、さぞかし食べよかろうと云うことですけれども、みんながそういう私は安易な考え方では修行も出来んしおかげは受けられないと思う。
おかげを受ける前には必ず修行がある。おかげを下さる前には必ずお鍛えがある。
ほんに世の中にこげな苦労がなかったらさぞよかろうと、云うごとあるけれども、そういう事では例えば西瓜を食べる時にほんにこの西瓜に種がなかならさぞよかろと云う様な事なんです。
種を取らせて頂き乍ら、ゆっくりゆっくり頂かせて貰う。もう種を取らせて頂くその事がもう楽しいのであり有難いのであり、いや当り前の事である。
すいかと云う字は、水火と、火の行やら水の行やら、いわゆる、まあきつい厳しい修行と云うことです。水火と云うことは・・・
そうい厳しい修行に取り組ませて頂くのにです、こういう煩わしい、こういう辛い、こういう苦しい修行を何時迄続けにゃならんじゃろうかと思う様な心は、もう本当の修行にはならん。それがさせて頂くのが楽しいのであり有難いのである。
信心の力が徳が身に付いてくる。それが有難いのであり、それが楽しいのである。成程起きる時は本当に眠いけれども、けれどもそこを押して今日も修行させて頂くと云う心でおかげを頂いておりますとです、本当に早起きしてよかった、修行させて頂いてよかったと云う心が生まれてくる。
それが段々稽古させて頂いておる内にです、もう目の方からパッチリ目が覚める様になる。今日も目覚しのおかげを頂いてもう有難いと、その時点で有難うなっておる。修行が修行じゃない事になる。 何時までこげな早起きせんならんじゃろうか、と云う様な事ではいけないと云う、そういう修行です。そういう修行を繰り返えさせて頂いておる内にです、そういう修行が昨日の御理解で申しますと、夏の暑さ冬の厳しい寒さと云う様なところでもです、成程夏は誰でも暑い、けれども一生懸命に仕事に打ち込んでおる人達は、もう暑いを忘れて仕舞っておる程しの修行。成程寒い時には辛い。霜の朝とか雪の日、それは辛いことは辛いけれども、そんなら一生懸命働いておる人達はです、着物を一枚でも二枚でも脱がして頂く程しのもうしんからポッポとしてくる訳です。暖まってくるのである。
してみると、冬は冷たいものと云うことではない。夏は暑くて苦しいと云うことではない。夏も又有難い、冬も又楽しいと云うことになる。そういうところをです、通らせて頂くと云うことがです、有難いと分からせて貰う様な、その向こうに春風駝蕩、いわゆる春風柳風と云うようなおかげが頂かれるのです。
種がなかならさぞよかろうと云う事じゃないでしょうが。
昨日、今の御理解を頂ながら、土居の久富さんが頂いておられるのが、この合楽教会の高い塔がありますねえ、あれに「和賀心時代を創る」と大きく書いて有る。あの塔の上に鶴が一匹止まっておると云うお知らせであった。
ここでは、私の事を亀と云う風に表現して下さる。皆さんは鶴である。亀の元へいわば鶴が飛んでくる。
この御理解を頂きよる時にね、久留米の佐田さんが石炭箱の中に大きな亀の甲らだけがギラギラとして光る様に見えた。そしてそれを出したところが、ここのお庭いっぱいの亀の姿になったお知らせを頂いたと云うお届けがあった。
それこそギラギラ光る様な庭いっぱいの大きな亀が、そこの亀の元にそれこそ合楽合楽と云うて、もう慕わしゅうて慕わしゅうてと、云う亀の元に鶴が飛んで來る。亀の方から飛んじゃいかん。亀の方からゴソゴソ這うちゃいかん。鶴の方から飛んで来なければならん。
松をバックに桂松平先生の御信心、安武松太郎先生の御信心、又は石橋松次郎先生の御信心と云う、そういう信心をバックにしてその根方に大きな亀が、その亀の元に沢山の鶴が飛んで來る。それこそ鶴亀の舞遊ぶ様な目出度いおかげになってくると云うのである。
それにはね、どうでもおかげを頂かんならんからと云うのではなくてです、いわゆる和賀心時代を創ると云うその高い塔に鶴が止まっておったと云う様に、鶴はどこ迄もです、和賀心を自分の心に頂かせて頂くことが本当なものになってゆく、楽しみが喜びが合楽通いでなからにゃならんと云うお知らせを久富さんが頂いておられます。
だから、目指すところが間違ってはならない。しかもそんなら、目指すところだけがどんなに素晴らしいところを目指しておっても、それに近ずこうとする精進、いわゆる修行がなかったら、いわゆる今日頂きます様に十分の徳を受けると云うことは出来ません。十分の徳を受けると云うところに十分のおかげの受けものが出来ると云うことなんですから、ここに精進の焦点を置かなければいけないでしょうが。
天地金乃神様は天地を一目に観てござる。誰がどう思い、どうしておる事はもう一目瞭然である。あの氏子は今あれが必要である、あの氏子にはあれを一つやらねばともう一目瞭然としてそれをご覧になっておる。
そこで私共がです、例えば申し上げ末楽はである。申し上げたらもう頭のところは取ってしまわなければならない。申し上げると云うところの申すと云う字の頭のところを取ると甲という字になるでしょう。
お願いをしお取次を頂いたら、もうそこに申す事も煩わしい心配もなくなる程しの私は信心を頂きたい。
これが徳を十分に受けようと思えばもうままよと云う心を出さねばならん。ままよとは死んでもままよの事ぞと。
ままよと云うこと、死んでもままよと云う程しのことですから、頭には何もない。そういう心の状態が甲の上だと云うのです。
今日の御理解は皆さんようと少し分かりにくかったかも知れんけれども、素晴らしい事ばかりを今日は頂いた感じです。そしてそういう素晴らしい事を願いとし、焦点としての信心でなからなければいけないと云う事。
それにはです、例えば鶴が亀の元に飛んで來る、通うて來ると云うことはもう楽しい事なんだ。だからお互いの修行が楽しいと云うところ迄修行を昇華して行くのである。高度なものにしてゆくのである。そいうい心の状態から欠げておる。それがおかげが漏ると言う心です。
なかなか完璧と云うことは出来ませんけれども、やはりそういう意味に於いての完璧な心と云うものを目指さなければならん。そこに初めてです、成程神様を信ずる力、その心と云うものはいよいよ強うなる。
どの様な場合であっても春風柳風のおかげ、そういう心の状態を今日は甲の上だと云う事。お互いの例えば、心の状態が果してどういう処にあるだろうか。甲乙丙丁とあるが、ま甲の組じゃろうか、乙の組じゃろうか。いや丙の組かも知れん。ひょっとすると落第点、云うならば丁の組かも分からん。
そこからいよいよ次の勉強の足がかりを求めての信心を頂きたいですね。 どうぞ。